過去のアタック

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2005年07月15日(金)
ZEVEXロシア 第5次調査



諸々の準備の間に一服したユジノサハリンスク市内のカフェ。
日本人客も来るのか、カタカナで「コーヒー」なんて書いてある。

[アタック日誌]

第1次調査が2003年の夏だから、サハリンに足を踏み入れて3年目になるが、未だに何がどうなるのか?さっぱり分からないのがサハリンだ。
この日の朝になって、昨日「上陸はまかりならん」と言われて保税倉庫へ強制収用された松野号ジープが上陸できることになった。

朗報なのでありがたい話だが、今日は今日でスケジュールはギリギリいっぱいで、コッシーと小笠原隊員に松野号J-53の受け取りに向かってもらって、西村隊員と鈴木の2名で、予定している廃道の通行許可と食糧等の買出しを実行することになった。

今回予定している廃道は、後半の2/3が民間ディベロッパーが開発したエリアなので、このディベロッパーに国境警備隊発給の許可証とサハリン税関からのレターを見せて事情を説明した上、しかるべき金額を払って許可を受ける。
もちろん我々が雇った通訳はジープの受け取りチームに同行しているので、3月の残務処理の時に利用した通訳会社から、同じ人(例の極真兄ちゃん)を急遽派遣してもらった。
伊達にこの半年の内の20日間もユジノの街で過ごしてはいない。
この程度の予定変更には何とか対応できるレベルになった。

午前中はこの許可証の取得に費やし、午後は食糧とパイオニアツールの買出しだ。
許可証...と言っても、ユジノは単なる連絡オフィスで、ハバロフスクの担当者に電話を掛けて何やら話をしてそれでオシマイ。
手紙の一枚も無い...かなり不安だ。

食糧は自由市場で「現物を指差す」というお馴染みの方法で何とか入手。
概ね60食プラス非常食・行動食という感じで、車と市場を西村隊員と3回も往復する必要が有った。

結局コッシー達がコルサコフから戻って来たのは4時を廻っていて、合流後、自動車の予備パーツ等の買出しに行くつもりが、行った時には既に閉店後で、油脂類の予備すら入手出来なかったのは痛い。
有るのは私のツールBOXに有るモリブデングリスだけだ。
明日は早朝発なので、何とか途中の街で探すしか無い。



[アタック期間中に衛星電話で伝えられた速報]

2005/07/15 20:05JST
調査隊@ユジノサハリンスク

まずは朗報を伝えたい。
昨日は入国が許可されなかった松野号ジープが、現地サハリンの旅行会社の社長がご尽力くださり、日本国領事館からも働きかけが得られ、なんとか入国が許可されることになった。
せっかく持ち込んだ車を使うことができるようになったのはうれしい限りだ。アインス宗谷に乗せて稚内に戻してしまったら、このような展開にはなり得なかったわけで、結果として、いつの間にか保税倉庫に収容されたのは幸いだった。
車両を受け取りるために4人全員でコルサコフに出向く必要はない。輿石と小笠原の2名がコルサコフに出向いた。
毎度のことながらお役所の仕事は時間がかかる。しきりなおしの通関にも丸一日かかってしまった。
ジープがユジノサハリンスクに着いたのは夕方。それまでに鈴木・西村も食料などの買い出し済ませ、冬にお世話になった北海道新聞さんにもご挨拶をさしあげた。
さて夕飯はトヨハラにしよう。2〜3月のアタックのときは、ご主人にいろいろお世話になったので挨拶もさしあげたいし。ところが行ってみると店がない。聞くとコルサコフへ移転したとのこと。挨拶できなかったのが少し残念。

もう一つの...これも朗報だろう。
サハリンTVの取材があった。なんでも、地元のラジヲが我らZEVEXのことを伝えていたとか。「この冬電気自動車を持ち込んだ日本人が新しいルートの調査に来ている」そんな内容だったらしい。それを聞きつけての取材申し込みだと言う。我々の活動が地元サハリンの人々に理解され、受け入れられつつあるのは嬉しいことだ。

明日の行動予定は、早朝ユジノサハリンスクを出て、一気にティモフスクまで走り抜けてしまう。
明日の定時連絡からは衛星電話になるだろう。 (O)


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