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2005年03月09日(水)
EV-4WD間宮海峡ゼロエミッション横断チャレンジ


[アタック日誌]

漸く連休が明けて、税関関係の手続きを開始できる。
朝8時45分ワシリーがモニェロンにやって来た。
タクシーでコルサコフの税関へ。

始めから少し...否、かなり心配していたのだが、コルサコフの税関で事情を説明して善後策を検討しようにもワシリーではさっぱり役に立たない。
上陸時は社長が先頭に立って手続きに動いてくれたのだが、腰痛でダウンしたとかで税関に向かったのはワシリーと谷口社長と私の3名だけ。

案の定「また明日」で、この日は終了。
事前に電話で打ち合わせる...というような「知恵」はワシリーには無い様子だ。
残金が乏しい中で往復のタクシー代が痛い。
明日までに社長の腰痛が回復するのを祈るが、期待薄であることを考えると頭も痛い。
二度とワシリーは雇わねえ!!、と思いながらユジノへ戻り、一縷の可能性を考えてSATのカウンターで11日の函館便を押さえる。

ホテルへ戻るとメッセージが残されていて、あの「イタル・タス通信」社から取材の依頼が有った。
世界5大通信社と言われる「イタル・タス」からの取材依頼にちょっとびっくりしてしまった。
地元のTVや新聞にちょくちょく出ていたのでニュースになると思った様子だ。
小久保さんに通訳をお願いしてインタビューも無事終了。
小久保さんは夜のノグリキ行きで再び北へ登って行ったので、いよいよモニェロンには言葉も通じない谷口社長と私のふたりだけになった。
言葉が通じないのは4年前のタイ以来だ。
あの時もイキナリだったがまあ何とかなったので、今回も何とかなる...だろうと思うことにした。


TVにも何度か取材されて、その映像が何回も流されるので、私はユジノの「プチ有名人」だった。
シャラポワみたいな女の子にキャーキャー言われることは無かったが、おっさんや兄ちゃん達には何度か指を指して笑われた。
アイドルの気持ちはわからなかったが、吉本の芸人の気持ちはちょっとわかった。



[アタック期間中に衛星電話で伝えられた速報]

03/09(Wed)

残務組@ユジノサハリンスク 19:59JST

今日は朝からコルサコフの税関へ手続きに出かけた。
案の定モスクワからの回答はなく無駄足に終わってしまった。
コルサコフからホテルに戻るとイタル・タス通信の記者から、取材希望のメッセージがあったので快諾した。
主として冒険的な事柄を担当している記者らしく、会談はきわめて好意的なムードで進んだ。
電気自動車での海峡アタックにはことのほか興味を持った様子。

現地ロシアの通信社なので、アタック断念の原因は、資金不足とビザの有効期限
とだけ伝え、その背景の出来事にはあえて触れずにおいた。
明日もコルサコフの税関へ出向かなければならない。
それでもモスクワからの回答が来てなければ...
ビザの延長手数料は\6万もすると言う。
現地旅行会社に税関業務を代行してもらうこともやむを得ない。
3/11には帰国するつもりで進めている。  (O)


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